エスカレーターの写真 左を空けて利用している女性が写っています

 

関西と近畿は、どちらが広い?

 狭義の関西は、大阪を指すといえます。「関西は面白い、関西弁はえげつない」等の「関西」は、大阪を標的にしているケースが多いはずです。 週刊誌の東西の比較記にしても、首都圏と大阪を紹介して終わりというケースを目にします。京都の記事を掲載する場合は、「関西特集」とは呼ばずに「京都特集」のタイトルになりましょう。

 最も広い関西は、箱根の関所以西全域で、九州も属するという見方があります。そうした感覚で関西を見ている東京人は存在するのです。

 広辞苑には、関西は[・近江逢坂関以西の地 ・鎌倉時代以降、鈴鹿、不破、愛発 (あらち)3関以西の諸国、すなわち畿内5国と近江・伊賀および山陰・山陽・南海・西海の諸道の称・箱根関以西の地・現今では東京地方を関東と称するのに対して京阪神地方をいう]とあります。ちなみに、鈴鹿は伊勢国(現在の三重県)、不破は美濃国(同岐阜県)、愛発は越前国(同福井県)です。

 定義を眺めれば、西日本よりも広い捉え方もあれば、京阪神を関西と呼ぶように使い方は曖昧であるのが分かります。

 

近畿は、2府4~6県?

 近畿は、広辞林には[・《皇居の所在地に近い地方の意》京都付近の国々。畿内・近畿地方]とあります。畿内とは、山城(京都府)・大和(奈良県)・河内(大阪 府)・和泉(大阪府)・摂津(大阪府と兵庫県の一部)の5国をいいます。大日本百 科事典は、近畿圏として「近畿地方は、京都・大阪の二府と三重・滋賀・奈良・和歌 山・兵庫の五県をさすが、近畿圏といった場合は、近畿圏整備法の適用される地域を いい、行政的には中部地方に入る福井県を含めた二府六県をさす」と記しています。

 近畿は、明治時代に国土区分のために付けられた名称で、国定教科書に登場したの は1903年(明治36)でした。近畿圏整備法は、63年(昭和38)に成立しています。 ですから近畿は「官」のイメージが強く、国の機関の名称は近畿です。「近畿弁は面白い」とは、ならないのですね。

 三重はもとは近畿でしたが、中京工業地帯の発達とともに東海にシフトしたと考え られます。県庁所在地の津市や四日市市は、明らかに東海圏。しかし名張や伊賀上 は大阪への通勤者も多く、この地に住んでおられる方は、関西意識が強いという現象 が現れています。

 三重は、昔から東西の分岐点でした。餅(西の丸餅、東の四角な切り餅)の分岐点 は三重県内にありました。「谷」の読み方も、鈴鹿峠から西が「たに」で、東は「や」 、「あほ」と「たわけ」の境界線も鈴鹿峠です。

 ともあれ、近畿は一応のくくりができます。ですから、関西の捉え方によって、近畿が関西よりも広かったり、狭かったりするのです。

 

京阪神がコア関西

 一般に関西は京阪神を指しますが、それでは琵琶湖や奈良は関西ではないのでしょうか。そこで、私は次のように関西を定義をしてみようと思います。

◎コア関西:京阪神の3都 ◎文化圏関西:奈良・琵琶湖・和歌山市など

◎グルメ・レジャー圏関西:姫路、赤穂、伊勢志摩、鈴鹿、白浜、城崎など

◎経済圏関西:福井や岡山、徳島までを包括する

 四国でも徳島県は、大阪に近い感覚があります。海を越えて関西のテレビが受信で きますから、他の3県とは異なるのです。岡山も中国地方に属しますが、関西の色合 いを強くもっています。関西の企業が新商品のテストマーケティングを岡山で実施するのも、うなずけます。

 その意味では、関西の西境は岡山だといえます。では東境はどこか。関ヶ原辺りにおくのが、捉え易いように思えますが、いかがでしょうか。 

(こうした言葉のこだわりは、拙著『ほな!!ぼちぼちいこか大阪弁』(すばる舎)をご覧ください)

エスカレーターは右立ち?左立ち? 

 

 

右立ちが「国際ルール」

 昭和30年代の大阪は元気でした。33年に「日清食品」がチキンラーメンを、「元禄寿司」が回転ずしを開発しています。翌34年には、「大和ハウス工業」がプレハブ住宅を売り出しました。テレビ番組も頑張っており、大村崑さんと佐々十郎さんの絶妙のコンビが演じた「やりくりアパート」(OTV)が人気を呼んだのは33年。

番組提供企業は「ダイハツ」で、主力商品のミゼットがPRされていました。同番組は、東京でも視聴率トップをとるなど健闘していたのです。しかし現在は、東京一極集中 化の傾向が強まっています。

 その意味では、大阪は「ローカル」かもしれません。しかし、エスカレーターで見られる東京の「左立ち・右あけ」方式は国際的には「ローカル」で、大阪流の「右立ち・左あけ」「国際ルール」であるというのは面白い現象です。

 大阪方式の右立ちの始まりには、「阪急電鉄」説があります。昭和42年、阪急梅田駅が現在地に移動(元は現在の百貨店の場所)しました。同駅は3階建で、長いエスカレーターがついています。急ぐ人のために左右のどちらかをあける必要があるのでは、と考えられました。エスカレーターでの状況を調べると、右手で手すりをもち立っている人が多く、そこで「お急ぎの方ために左側をおあけください」とのアナウンスを流したのが始まりだというものです。

 別途、昭和45年開催の万博説があります。世界各国からの来阪が予想されますが、大阪人のマナーはもうひとつよろしくない。改善策から、ヨーロッパルールにならいアピールしたといわれます。

 

右に立つのも、左を歩くにも自然の法則

 大阪人がエスカレーターで右に立つのは、諸説ある中で人間は右利きが多く、利き手(右手)で手すりをもつ方がもちやすいからというものが理解しやすいと考えます。なぜ右利きが多いかといえば、心臓が左側にある人が多いからで、心臓を守るためにも右利きになるとの説です。

 歩くときも左端に寄るほうが、左側にある心臓が防御できて安全というのも理屈でしょう。大阪人がエスカレーターで左側を歩くのは、右立ちと同様に自然の法則であるとの論は説得力をもっていると思われませんか。左足を軸として右足で攻撃をする、だから陸上やスケート競技は左回りになります。商店街でも左側を歩くほうが、ショーウインドーが見やすく、店にも入りやすいはずです。車でも、右折よりも左折のほうがラクですね。心斎橋筋や梅田の地下街が左側通行になっているのも、自然の流れから来ているのです。

 東京の「左立ち・右あけ」の理由はもう一つ明確ではないのですが、第二次大戦後、日本はそれまでの左側通行が改められて「人は右側通行」と定められました。このルールを忠実に守っているのが、東京人だといえなくもありません。

 エスカレーターの歩き方一つからも、「自然に生きる大阪」と「規則を守る東京」というように、東西の気質の違いが見えてきて面白いものがあります。

(こうした大阪人を『どや!大阪のおばちゃん学』(草思社)で分析しています)

 

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